[著者・匿名希望]
「ウミガメのスープって知ってるか、タヤーカちゃん」
季節は冬。窓の外に、チカチカと点滅を繰り返すイルミネーションの光が増え始める時期。
日が傾き始めた時間帯ともあって閑散としている店内で、城の主は頬杖をついて四人掛けのテーブル席に座っている。
向かいの席で賄いの肉料理を頬張る従業員は、今しがた自分に向かって投げられた問いの意味を口の中の肉と一緒に咀嚼すると、ゆっくりと飲み込んだ。
「いえ、知りませんけど……」
自分の専門は肉料理なので、と付け足して返事を待つ。目の前に座る男は、こうして暇が出来るとたまに料理の話をし始める。なんでも、新しい料理の研究なのだそうだ。
「料理の話じゃなくてな──ああいや、料理の話でもあるんだけど」
そう前置きしてから、男は一呼吸開けて説明する。その間に、彼女は二切れ目の肉を口に入れていた。
「店でウミガメのスープを飲んだ男が突然泣き出したって話」
そうして最後は自ら命を絶つ……のだが、店主はそこで話を止める。考えてみれば、食事中にする話でも無かったかもしれないと思い直すが、目の前の彼女はどうやら興味を持ってしまったらしい。
仕方なしに彼は『ウミガメのスープ』のルールを説明する。一通り理解を終えた彼女は、暫く視線を宙へ向けて考え込んだ。
少し外が冷えてきたのだろうか。肌寒さを感じた店主は、室内の温度を上げる為に席を立つ。雪こそまだ降ってはいないものの、突如として冷え込んだ気温は気を抜けば体調を崩しかねない。視線を相席者へ向けると、彼女はまだ悩んでいるようだった。
カウンター席を目の前にするキッチン。火が消えて、音が消えている戦場が少しだけ寒さを強めている気がして、ふと足を止める。どうやら最初の質問が決まったらしいようで、カウンター越しに手を振る彼女の姿が見えた。
満面の笑みを浮かべて、タヤーカは口を開いた。
「その人はひとりぼっちでしたか?」
◇
ヴェリナードでは水葬が主流なのだが、彼女の生まれ育ったカミハルムイでは火葬が広く行われていた。相手方の家も火葬を望んでいた。
だけれどいざ火葬をすると決まった時、得体の知れない強い不安に襲われて、何度も頭を下げて、額に擦り傷が出来るまで床に押し付けて、俺は水葬を希望した。
きっと、彼女が骨と灰になってしまうのが怖かったのだと思う。
彼女が死んでしまった事を見せつけられてしまうのが、たまらなく怖かったのだと、そう思う。
俺の我儘に相手も最後は折れてくれて、彼女は水平線の向こうへ送られることになった。
手元に残ったのは、彼女が当日身に着けていた一本の簪だけで、俺の周りには驚くほど彼女との品物が無い事に気づかされる。
葬式の日、彼女の小さな体が黄泉の船に乗せられて、揺られて、海の向こうに消えても、俺の瞳は乾いたままだった。
愛する者が死んでも、両親が死んでも、涙を流してはいけない。涙で斬るべき敵が見えなくなってしまうから。それが、代々ヴェリナードを守り続けてきた我が魔法戦士一族の家訓で、生まれてからずっと守り続けてきたルールだった。
そうしてルールを守り続けて、ただひたすらに仕事に明け暮れていたからだろうか。ある日彼女は、俺が恨みを買った盗賊達の強盗に遭って、悲鳴を上げることすら許されずにこの世を去った。冷たくなった彼女を見つけたのは、遠征から帰ってきた日……事件から二日後の出来事だった。
彼女の家は所謂貴族の家で、彼女はそのカミハルムイでも名の通ったいい所のお嬢さんで、つまるところ俺たちは政治的なもので結ばれた、愛のない結婚だった。
包丁の一つも握ることを許されなかったという彼女は料理が出来なくて、結局いつも、食事はバザーに売られている出来合わせの物だった。だから俺は彼女の手料理を食べたこともない。
自然と会話も減っていって、いつの日か名前を呼ぶことも無くなってしまった。
彼女の両親に挨拶をして、葬式の会場を後にする。優しい人たちで、気にすることはないと言ってくれたけれど、一番辛いのはきっとあの人たちだ。
逃げるように、その場を離れた。
空を見上げれば日は既に大きく傾いていて、辺りは暗くなっていた。日が落ちるのも早くなってきた冬。寒さが一層強くなってきたのを感じながら、ようやく自分が朝から何も食べていないことを思い出した。
そのままの足で、食事処を探す。アズランもジュレットも、今は行きたくない。かといって人の多い所に長居したいとも思わない。自然と足は、ガタラの住宅地へ向いていた。
暫く歩き回って、ふと一軒の店の前で足を止める。
──ビストロ ガスパール
幾分か前にどこかの広告で名前を見かけたような気がする。
大きなアーチが二つ、左右に広がり客を出迎える。落ち着いた色の照明が、空間そのものを優しい空気に変える。自然が多く、ガタラの油臭さを感じさせない店構えが一等目立っていた。目につくのは玄関前で金色に輝く郵便受けくらいだろうか。
吸い込まれるような、そんな不思議な感覚が体に走る。気が付けば俺は、ドアを開けていた。
「──その人はひとりぼっちでしたか?」
突然聞こえてきたその声に、頭を殴られたような気がした。
他愛のない、客と従業員のおしゃべりか何かなのだろうけれど、ふとひとりぼっちという言葉が焼けるように耳に残り続けた。
俺はひとりぼっちだっただろうか。俺は、ひとりぼっちになるのだろうか。
ドアの呼び鈴に反応したのか、二人のウェディがこちらを見ている。服装を見るに、どうやら先ほどの会話が店主と従業員の物だったと分かる。俺の他に、客は一人もいなかった。
来客に反応した店主の男が、声をかける。
「ようこそ、『ビストロ ガスパール』へ。お好きな席にお掛けください」
ご注文は当店の従業員までどうぞ。そう締めた男は壁にかけられたフライパンを手に、調理の準備を開始する。
店の中央にある小さな噴水の音が、彼女を見送った波の音と重なった。
◇
「ご注文、決まりました?」
どうせ一人しかいないからとカウンター席に座る事数刻。暫く何を頼もうか悩んでいた自分に、ウェディの女性がそう声をかける。
先ほどまで賄いを食べていたようで、口元にはソースが付いていた。
入り口にあるドラキーの写真立てで確認したメニューの中から、バトルステーキを一つ注文する。
「かしこまりです!」
「かしこまりました、な。タヤーカちゃん」
口調の注意を受けながら、タヤーカさんは笑っていた。
店主はフライパンを油で拭いて、軽く熱を入れる。そこに肉を置くと、油のはじける音が水の流れる音をかき消すように響いた。
赤い身に焼き目が付き始めたら、胡椒を振ってひっくり返す。いつの間にか店内に香ばしい匂いが広がっていて、思わずお腹が鳴ってしまった。恥ずかしさから目を伏せる。ふとタヤーカさんの方を見れば、彼女は何かを考えるように目を瞑っていた。
焦がすことのないように火加減を調節してから、店主は添え物の野菜を切っていく。白い玉ねぎも赤いトマトも、引き立て役では終わらない瑞々しさを湛えている。
フライパンから肉を上げて、清潔感のある白い陶磁器の皿へ盛り付ける。赤ワインをベースにしたソースを上からかけると、綺麗な焼き色の付いた肉が更に輝いて見えた。間違いなく、会心の一皿。
「お待たせしました。バトルステーキです」
手渡された料理を見て、思わず俺は舌を巻いた。これを弁当に包んで持っていけば、どんな一般兵でも武勲を上げられるだろう。そう感じさせる不思議な力に溢れる料理だった。
添えられたナイフで丁寧に切り分けてから口に運ぶ。バザーでたまに買う冷めた物とは一線を画した味が、ナイフとフォークを握る手を夢中にさせる。気が付けば目の前の皿は、ソースが少し残っているばかりになっていた。
ボリュームのある料理に、しかし満たされた気がしない。朝から食べていないからだろうか。それとも、別の何かなのだろうか。
それを察したのか、店主の男がもう一品、俺の目の前にスープを置いた。
「これ、試作品なんでよかったら」
聞けば彼は、既存のレシピに捉われない新しい料理を研究しているのだと言う。これもその研究の一環なのだと置かれたスープは、一見してただのマジックスープに見えた。
いつの日だったか、魔法戦士という職業を気にして彼女が食卓に出してくれたことがあった。
市販品だけれど、と念を押して配膳されたそのスープは料理としての効果が薄く、市販品ならばこんなもんかと考えた物だが、味だけはどの料理よりも好みの味だったのを思い出した。
それからはたまにバザーで買ってきてもらうようにしていた。
「これも、いいんですか」
「ええまあ、試作品なんでお代もいりません。その代わり食べた感想を頂けませんか」
それほど大きくもない器に満たされたスープを匙で口へ運ぶ。口の中に広がったのは魚介の旨味や野菜から出る出汁の香り、そして微かな清涼感──……。
今まで食べてきた市販品のそれと何一つ変わらない味だった。
ヴェリナードの兵士として遠征する際に持ち運ぶ弁当は基本的に味が濃い。鎧などを着込むことから、熱中症を予防するためである。そんな食事が続いた後、帰宅してから食べるこのさっぱりとしたスープが、俺は何よりも好きだった。
期待を含んだ男の声が聞こえる。動揺を悟られまいと、平静を装って返事をする。
「いや、その……。私が普段口にしていたバザーの物と同じ味で……いや、私の舌が貧しいだけでしょう。お役に立てず申し訳ない」
俺のその言葉に、今度は店主の男が驚いた。
「バザーの品よりもさっぱりとした味がしませんか。具材を煮込むのに『せいすい』を使ってみたんです。どうにも他の物に比べて食事としての効能を出すのに苦戦しているんですが」
比較用にと用意してくれたマジックスープを一口、口へ入れる。タヤーカさんが自分も試食してみたいと言うので、新しい匙を用意してもらった。
こうして飲み比べてみるとはっきりと違いが分かる。バザーの品は胡椒の味が強く、加えて少量のデリシャスオイルによって味を作られている。対して、確かに試作品と呼ばれたスープは胡椒やオイルが控えめに調整されており、ほのかな清涼感もせいすいと言われれば思い当たる節がある。
「確かに違いますが……。私が普段食べていたのはこっちの方なんです」
試作品のスープを指さして、そう答える。妻がいつも用意してくれていたのは間違いなくその試作品の方で、ではこの味の濃いスープは一体何なのだろうと首を傾げる。
「不思議なこともあるもんだ……。僕みたいなもの好きが他にいたってことかな」
「シェフみたいな人がですか? そうそういないと思いますけどね」
暫く腕を組んで考え事をしていた店主は、ふと顔を上げて目を大きく開く。
「──いや、そう言えばいつだったか、このスープの作り方を教えてあげたお客さんが一人いたな」
そうしてオーナーシェフ・ガスパール氏はつらつらと、その客の──俺の妻の話を始めるのだった。
◇
俺の結婚相手は決して笑うことの少ない、静かで淑やかなエルフの女性だった。
実家に顔も出さず魔物の討伐に明け暮れていた折に、結婚の相手を決めておいたと当人の意見に耳もくれず婚約をしてしまったのが彼女だった。
初めて顔を合わせた時から、彼女の笑顔を見た回数は片手で数えられてしまうほどで、そんな彼女を見た俺は、この結婚に不満があるのだろうと一人合点していた。
料理は危ないからしない。掃除や洗濯は二人で役割を決めて行っていたが、遠征から帰ると高い確率で花瓶や皿が割れていた。はっきりと言って、結婚生活が上手くいっているとは思えなかった。
そんな中、ある日の遠征を終えて帰ってきた時に出されたのがガスパール氏曰く『試作品』のマジックスープだった。
何度も市販品だと念を押す彼女をよそに食べたスープは確かに暖かくて、優しい味がした。
「お口に合わなければ次からは購入を控えます」
そう言った彼女に俺は一体、なんと言ってあげただろうか。はっきりと思い出すことが出来ないけれど、それを聞いた彼女は少しだけ俯いて、微笑んでいたようにも見えたのは気のせいだろうか──……。
「一生懸命に聞いてメモを取っていてね。必死な姿が可愛いからお代おまけしようとしたらイラーナさんに怒られたもんだ……」
「そりゃあ、そんなことしてたら先輩も怒りますって……」
店主の、ガスパール氏の思い出話にタヤーカさんが呆れたように笑う。
思い出。
俺と彼女に、思い出と呼べる物はあっただろうか。
忙しいからと、関心が無いからと、奥底にしまい込んでいた物が溢れて滲みだす。
遅すぎる後悔が堰を切って嗚咽になり、湯気を立てるスープに落ちていった。
二人でカミハルムイのお祭りへ出掛けた。屋台のりんご飴を物珍しそうに見るものだから買ってあげたら、一緒に食べましょうと差し出された。ヴェリナードの露店を見て回った。どんな品がいいか分からなかったから、彼女の黒い髪に似合いそうな明るい色の簪を贈ったら、大切に使うとお礼を言ってくれた。ジュレットの展望台から年越しの花火を一緒に見た。空に響く音と光に身体を小さく震わせた彼女の綺麗な瞳の中に、大輪の夜空が咲いていた。
後悔と思い出の、一体何が違うのだろうか。今ではその答えも簡単に分かる。俺はもっと、彼女を見てあげなければいけなかったのだと、気付いた時にはもう、隣に彼女はいなくなっていた。
もっとちゃんと見てあげていれば、マジックスープをどうぞと渡すその白くて小さな手に、生傷が沢山あったことに気づいてあげられたかもしれない。慣れない包丁を使って、使ったこともない器具を使って、彼女は俺に思い出を作ってくれていたのだ。
その思い出を、せめて全て掬い上げようと匙を動かす。少しだけ塩辛い試作品の思い出は、物足りなかったその空腹を埋めるには多すぎるくらいだった。
暫くして俺が落ち着くまで、二人のウェディは何も言わずにただそこに居てくれた。
空になったスープの皿を二つ、店主は何も言わずに下げてくれる。もう一つのスープは、タヤーカさんが食べてくれたようだ。
帰り際、店主のガスパール氏にステーキの代金を支払う。スープの分も渡そうとした俺に、彼は一度いらないと言った物だからと手を振った。
店の外へ出ると、火照った体を風が通り抜けて冷ましていく。すっかり暗くなってしまった空には、点々と星が光っていた。
──その人はひとりぼっちでしたか?
俺はひとりぼっちだと思い込んでいたのだと、この店を出た後ならはっきりと分かる。
時間を戻すことは出来ない。俺の勘違いがひとりぼっちにしてしまった彼女には、謝りたくとも謝ることなどできはしないのだ。
「……料理でも勉強してみようか」
手始めにせいすいを買いに行こう。
足は自然と、バザーへと歩み出していた。
◇
「答えを聞いていません」
客のウェディが帰った後で、そう呟いたのはタヤーカだった。なんの脈絡もなく投げかけられた疑問に、ガスパールはしばし首を傾げる。
「ウミガメのスープですよウミガメのスープ。それでどうなんですか? その男の人はひとりぼっちだったんですか?」
「ひとりぼっちって……もう少し分かりやすく質問してくれないかタヤーカちゃん」
お客さんの食事の後片付けをしながら、その問いの真意を確認する。食器を洗うための洗剤を探すその背中に、答えが返ってきた。
「だってご飯を食べて泣いちゃうってよほどの事じゃないですか。だからその人は過去に家族とか、他の人とそのスープを飲んだことがあるんじゃないかなって」
「ああ……そういう事」
答えはイエスだよ、と言いながら後片付けを進める。そろそろディナーの時間だ。これからお客さんも入ってくる頃だろう。
「なら分かっちゃったかもしれません……! ズバリ、その人は思い出の味に感激して涙を流したのです!」
元気よくそう答えるタヤーカの指がガスパールを指し示すのと、店の扉が再び呼び鈴を鳴らしながら開いたのはほとんど同時だった。
視線を向けると、よく見知ったウェディの女性が呆れたような顔でこちらを見ていた。
両手の大きな袋には、彼が買い出しを頼んだ食材が詰まっている。今の時期は特に魚が美味しい。脂ののった魚料理は、この時期の稼ぎ頭と呼んで差し支えないだろう。
「それで……何の騒ぎなんです?」
「お帰りなさい先輩! 実は今シェフと『ウミガメのスープ』をやっていてですね」
「ああ、なるほど……」
一通りの話の流れを聞いた彼女は、買い出しの品を店主へ手渡す。受け取った物を一つずつ確認した店主はそれを片づけると、食器の洗浄を再開した。
「で、なんて答えたのかしら」
「ええと、過去の思い出に感涙してしまった、ですかね。結構自信ありますよ」
「ふふ……」
どうやらこの問題の答えを知っているらしい彼女は、自信あふれるその答えを聞いた後に店主へ返事を促す。
だから、ガスパールは答えた。
「正解だタヤーカちゃん。よく分かったな」
それを聞いて喜ぶタヤーカを尻目に、不思議そうな顔をした彼女はガスパールへ近づくと耳元で囁いた。
「本当は違うでしょう? どうして嘘を教えたのかしら」
その問いに、ガスパールは答える。
「だってさ、やっぱり僕はバッド・エンドよりもハッピー・エンドの方が好きなんだよね。ほら、外が暗いんだからここくらいは明るい方がいいでしょう?」
ねえ、イラーナさん。それだけ言うと洗い終わった四枚の皿を片づけて、ガスパールは軽く店の清掃を始める。カウンター席の水滴を拭き取り、椅子を整える。
全てを抜かりなく整えたガスパールは、小躍りを続けるタヤーカと少しだけ不服そうな顔のイラーナへ向き直る。
そして、まるで研究成果を報告するように仰々しく、不敵な笑みを浮かべて語り掛けた。
「この話で分かることは一つ、思い出も料理を彩るスパイスの一つってことさ」