─1─
「坊ちゃま! いい加減にお目覚めになられては如何でしょうか!」
ドンドン、と無遠慮にドアを叩く音と、それに負けず劣らずのけたたましい声に驚き、思わずベッドから跳ね起きる。
寝ぼけた頭のままでとりあえずドアを開けると、声の主たるじいやが険しい顔でこちらを見ていた。
「なんだ、じいやか」
「なんだでは御座いません、坊ちゃま。今日という日は、朝寝坊で時間を浪費していいものではないはずですぞ」
僕が『返す言葉もない』とばかりに肩をすくめて見せると、じいやは小さく溜息をつき、パンッ、とひとつ手を打ち鳴らす。
その音を聞きつけた近くの使用人たちが集まるのに5秒とかからないのだから、いつものことながら感心する。
「お早うございます、大旦那様。よくお休みになられていたようですね」
「おはよう。あまり深酒をするものではないね」
僕が困り顔をして見せると、昨夜の晩酌に付き合わせた使用人が小声で「深酒と言っても1杯だけですがね」と茶々を入れてくるものだから、皆は揃ってくすりと笑った。
─2─
「大旦那様、本日のお召し物はいかがなさいますか?」
「君に任せるよ。僕はあまり服に興味がないから、いつも選んでくれて助かってる」
「そう仰ると思っておりました」
衣装を管理している使用人が、頬を弛ませながら箪笥に手を伸ばす。ひとつふたつ思案顔で探った後、真っ白なスーツを取り出す。
「こちらはまだお披露目したことありませんでしたよね? 個人的に好きなお洋服です」
「へぇ、いいね。けれど、今日はその服のままで料理をするから汚してしまわないかな」
すると彼は、微笑みを崩さないままこちらに迫ってくる。
「ご心配には及びません。まさか大旦那様が私の大事な衣装箪笥の中身を減らしてしまわれるなんて、そんなそんな」
嫌に凄味のある顔で言ってくるのだから、僕としては「そ、そうだね」としか言えなかった。これはこれで信頼の形だと思うことにし、彼の選んでくれたスーツに袖を通す。
姿見に映った自分を見る。似合っているかはよくわからないけれど、隣に立っている使用人が満足そうに頷いていた。
─3─
なにか腹に入れようと食堂へ足を運ぶと、ちょうど料理担当の使用人がフライパンを火にかけているところだった。
「おはよう。なにを作っているんだい」
「お早うございます。今しがたガレットが焼き上がったところですよ」
そば粉を溶かした生地を、クレープ状に薄く伸ばして焼いたガレット。僕はここにハムとチーズと玉子を落としたものが好物だ。
「どうぞ。いつもの具材でよろしかったですか?」
「構わないよ。いただこう」
もちもちとした生地に、香ばしく焼かれたハムとチーズの塩気がよく合う。玉子もとろとろとした半熟仕様。
「君の料理はちょっとしたレストラン並みだよ、本当に」
「恐れ入ります」
「前にも言ったけれど、僕と一緒に喫茶店のキッチンに立たないか?」
「前にも申し上げましたが、そこは大旦那様のステージかと存じます。私がお邪魔するところでは御座いませんよ」
ふっ、と微笑みながら使用人が断りを入れてくる。そして、急に満面の笑みを向けてくると、
「それに私、お嬢様へのお給仕の方でも評判が良いものですから!」
などとわざとらしくおどけてくるものだから、僕は無視してガレットを食べ進めた。
─4─
全ての支度を終えた僕は、ティーサロンに並び立つ執事たちそれぞれを見やりながら、店の入口へと歩を進める。
「店内の準備は」
「部屋の四隅に至るまで清掃済みです」
「ティーセットや食品の仕込みも、間違いなく完了しております」
「店外の警備は」
「定期的に見て回る予定で御座います」
「大旦那様はサロンにご尽力くださいませ」
「このスーツ、しっくりきているよ」
「ようやくお披露目できますね」
「お気に召されたようで何よりです」
「閉店後の楽しみはあるんだろうな?」
「とっておきのワインを開けましょう」
「スイーツもご用意しておきます」
「大旦那様、そろそろ」
「わかった」
「じいや」
「こちらに」
扉を前にし、今一度10人の執事たちと目を合わせる。今さら心配する必要はない。
「さて、それではお嬢様方をお迎えしよう。君たちも十分に楽しむように」
執事喫茶プラージュ。
繰り返される微笑みは、
寄せては返す波のように。
「それじゃあ、私は店内の掃除をしておきますね」
「ありがとう」
ビストロ ガスパール、本日の営業は終了。珍しくタヤーカは急用で休んでおり、ガスパールと私の他にはウェイトレス1人だけでの営業だった。もっとも、そのウェイトレスはうちの店員の中でも最古参であり付き合いも深いため、何も問題は無かった。
掃除は彼女に任せ、私は経理作業に取りかかる。と言っても来客数は相変わらず伸び悩んでいるため、さほどの時間もかからない。テーブルセッティングから床掃除までこなす彼女のほうがよっぽどテキパキと動いている。まあ、今日に限ってはそのほうが都合が良い。私はさっさと書類を片付けると、荷物を取りに控え室に向かった。
────
「ちょっといい?」
「なにかしら、イラーナさん」
掃除が終わった頃を見計らい彼女に声をかけると、裏表の無さそうな素直な笑みを向けてくれる。エルフの体格で綺麗な三つ編みということもあり、まだ幼い少女のような印象すら受ける。けれど瞳には力があり、所作には隙がない。そんな彼女がまた一つ歳を重ねたということを、私は数日前に思い出していた。
「間違っていたら悪いのだけれど、確か何日か前が誕生日だったわよね?」
「ええ、覚えていてくれたのね」
少し驚いたような顔をする彼女に、私は小箱を手渡す。
「それでね、大したものではないけれどプレゼントを」
照れくさそうに微笑みながら彼女は小箱を開く。中に入っているのは、柄に赤い宝石飾りをあしらったティースプーンとケーキフォークのセット。店用のカトラリーを探していた際にこれを目にし、鮮やかな赤から彼女の瞳を思い出していた。
「ありがとう、嬉しいわ」
箱の中を矯めつ眇めつ眺めている様子からすると、喜んでもらえたと考えて良いだろうか。
僅かな間のあと、彼女が遠慮がちに口を開く。
「ここの店員さんたちってお互いのプライベートにはあまり関わらないから、なんだかこういうの嬉しいです」
「そうね、店主が意図的にそうしている部分があるし」
そこそこ会話が弾み、まあまあ笑顔の絶えない職場ではあるものの、店の外で店員と会うことはほとんどない。公私分別というより、単に店主が人付き合いベタというだけのことだが。これを機に、付き合いの長い彼女と仲良くなれたらいいなと思った。買い出しのついでに、メギストリスで買い物や食事などしてみたい。
と、二人で他愛もない会話を続けていたのだが、そういった空気を意に介さず壊してしまう人というのは大体どのコミュニティにもいるものだ。そしてこの店におけるその役回りは、残念ながら店主であるガスパールが担っている。
「へえ、綺麗なケーキフォークだね。でも確か甘いもの苦手じゃなかったっけ?」
────
「ごめんなさい、私、全然知らなくて」
「全く食べられないわけではないですよ! それに、フルーツとかでも使えますし!」
それはその通りなのだが、プレゼントの使い所があまり無さそうということを隠し、私のために気を遣わせてしまったことが申し訳なかった。
「綺麗でかわいいし、嬉しかったのは本当ですから気にしないでくださいね」
「ありがとう。でも、あまり使わないものをあげてしまったのが少し残念だわ」
一応は「やべっ」という顔をして黙っていたガスパールだったが、ここで口を挟んでくる。
「それなら、一度目の使用機会は僕がプレゼントしよう。イラーナさんは良い紅茶でも淹れておいてくれ」
やけに決め顔なことと説明不足が少し癇に障ったが、どうやら彼なりのフォローの形らしいので黙って従っておくことにした。
「この前お客様からいただいたものを開けましょうか」
「そうしよう。あ、僕の分は用意しなくていいから。二人で飲んじゃって」
いつからだったか、ガスパールはあまり紅茶を好まなくなった。私が休憩時間にティーポットを携えているのを見たくらいでも顔をしかめる。以前は普通に飲んでいたのだが、まあ、彼の好みが変わりやすいのは昔からだ。私はウェイトレスの彼女を席に座らせ、二人分の紅茶の準備をした。
────
ほどなく私たちの元に運ばれてきたのは、虹と羽を模した飾りを乗せたデザート『スタースイーツ』のようだ。
「あえて今出してくださったということは、私のために甘さを控えているのかしら?」
彼女はやや怪訝そうな顔でガスパールに問うた。
「そうなるね。新メニューの試作品みたいなものだから遠慮なく食べちゃってくれ」
私と彼女は顔を見合わせ、まあそういうことならと皿に手を伸ばす。試作品ということは店用の新メニュー、あるいは彼の研究テーマである『職人レシピの改定』か。
星の形に整え、イチゴのソースを挟んだパンナコッタ。カラフルな虹型クッキーを乗せ、全体的にポップな印象で可愛らしいが……。普段とは異なり、白い羽のクッキーも並べてある。これはなに?
星の一角をフォークで切り分け、口に運ぶ。なめらかなパンナコッタと、甘酸っぱいイチゴ。そしてこの爽やかな香りは……ミント? 少し入れ過ぎなくらい爽やかだが。
隣を見ると、彼女も微妙な表情で顔を上げたところだった。
「『スタースイーツ』にミントは入ってませんでしたよね? ちょっと風味が強すぎませんか?」
「私もそう思ったわ」
珍しく料理にケチをつけられたガスパールだったが特に表情は変わらず、それどころか納得したような顔をしていた。
「そうなんだ」
「そうなんだ?」
「僕、ミント嫌いだから味見してないんだよね」
呆れて物が言えないとはこのことか。そんなシェフがいていいのかしら。彼女に至っては苦笑いでこっちを見ていた。私はガスパールを細く睨んでみる。
「いや、違う、別に嫌がらせとかじゃないよ。昨日だかにお客さんから『甘さ控えめデザート』の依頼がちょうどあって試してたとこでさ」
「なるほど、それでミントの『スタースイーツ』を作ってはみたけど味見はしたくなかったと」
「厳密には『スタースイーツ』と『クイックケーキ』のいいとこ取りって感じかな」
「あー、だから羽クッキーとミントなんですね」
ガスパールの奇行に慣れているらしい彼女も、この説明で理解したらしい。
「それで、甘いものが苦手な人からしたらどんな感想?」
「そうですね……とりあえずミントが強いと思います。パンナコッタもソースも砂糖自体を減らしているようですから、まあ他で食べるよりは爽やかで食べやすいんじゃないでしょうか」
「なるほどね、参考になるよ」
「私としては好きとまでは言えませんでしたが、イラーナさんのフォークを楽しく使うことができたことには感謝しておきますね」
「ごめんごめん。次はなにかフルーツでも切っておくよ」
────
私の情報収集不足でイマイチなプレゼントになってしまったが、そこにイマイチなケーキを出して全体的にうやむやな空気になったのは、果たして彼の狙い通りなのだろうか。そんな風に上手く気を遣える人ではなかったように思うけれど。
そういえば、お客様からの依頼で甘さ控えめデザートを試していたと言っていた。そういった事柄は大抵の場合、ガスパールと私とタヤーカの情報共有ノートに記載することにしている。お客様の情報をメインスタッフ間で確認しておくことは、リピーターを増やす上で大切なことだと考えているためだ。
ウェイトレスの彼女とガスパールが帰った後、薄暗い店内でひとり、共有ノートをめくる。
しかし……1週間分を遡っても、そのような記述を見つけることはできませんでしたとさ。
執筆協力:とあるオーガ
接客系プレイベ「GirlsBar ☆RinDrop.☆」(以下リンドロ)が、4月8日(金)に100回目の開店を迎える。本インタビューでは、群雄割拠の接客イベント業界の中で店長ののりさんが大切にされていること、開催にあたっての工夫などについてお話を伺った。
──早速ですが、簡単に自己紹介をお願いします。
のり 「リンドロ」オーナー兼店長ののりです。よろしくお願いします。
──よろしくお願いします。まもなく開店から100回目を迎えられる「リンドロ」ですが、開店当初から掲げてきた理念のようなものはありますか?
のり 私個人としては「リンドロメンバーのみんなと一緒にイベントをやりたい!」という自分の初心を忘れないこと。メンバーのみんなに言っているのは、お客さんに「来てよかった、また遊びに来たい!」と思ってもらえるようなイベントを目指すことです。
──ブログやツイートから、のりさんが折りに触れてメンバーを大切になさっている様子が伺えます。
のり メンバーに「リンドロを選んで良かった!」って思ってもらわないといけないので、大事していきたいと思っています。
──メンバーとの関わり方で気をつけていることはありますか?
のり イベントを開催していく中で、メンバー自身が良かれと思ってしている行動は、私と考えが違っていても見守るようにしています。例えば接客で話す内容だったり、お見送り時に時間を気にせず丁寧に感謝を伝える事だったり。そういうみんなの良さが「リンドロ」の良さに繋がっているのだと思います。
──良い意味で緩いルール設定というか、自主性を重んじているんですね。
のり 開店するとき「みんなにとっても良いお店を作りたい!」ってメンバーに約束したんですよね。みんながいないとイベントは出来ないし、みんなと一緒にイベントをやれるってことが一番なので。
──現在のプレイベ界隈では「接客イベント」が数多く開催されていますが、その中で「リンドロ」が他店との差別化として意識されていることはありますか?
のり 予約制度を設けないなど、シンプルなシステムであることですかね。
──確かに「リンドロ」は予約が出来ないので、常連客だけでなく新規客も入りやすいシステムだと感じていました。
個人的に珍しいと思ったのは、同業種によくある「客への支払い誘導」や「売上によるキャストのランキング化」が無く、お客さんに金銭的な煽りをかけていないことです。これも意識されてのことですか?
のり そうですね。「(有料の)ドリンクもあるけど接客メインのお店にしたい」と思って開催しています。私自身も過去に接客イベントのスタッフを経験していて、その中で嫌なことや寂しい思い、理不尽に感じたこと、もちろん楽しかったことなど沢山のことがありました。そういった経験を自分のイベントで活かしていきたいと思っています。
──メンバーさんの採用基準のようなものはありますか?
のり 他のお店の場合は「お客さんに対しての接客をきちんと出来る子」だと思うのですが、うちでは「他のメンバーに対しての接し方」をまず見ています。昔は鬼のように接客練習をしていたのですが、他のメンバーに対する接し方を見ていればお客さんへの接し方も大体わかると思い、最近はやっていません。
──内部での態度というのはモロに人間性が出ますよね。
のり 特に「リンドロ」には予約制度が無いので、自分が誘ったお客さんを自分が接客出来るとは限らないんですよね。そのときに代わりに接客する子が自分の知らない、得体の知れない子だったら嫌じゃないですか。他のメンバーでも安心して任せられるっていうのは大事。接客だけ抜群に上手で「他店で経験あるんで!」みたいな子はだいたい見習い期間中に辞めてます(笑)
──VIPルームについても予約ができないなど独特ですよね。
のり 昔は予約ができたので誰でも入れたのですが、ハウジング担当のすずこさんが頑張って作ってくれた場所なので、特別なところにしたいと思いました。なので現在は予約できず、来てくれたお客さんからランダムに招待しています。
いつも長時間並んでくれてるお客さんを差し置いて、一見さんや営業目的の方がVIPルームにするっと入っていくのに違和感がありました。だから毎回来てくれてる方に当選確率がアップするように工夫しています。当選した時のサプライズ感とか、VIPルームまでの道のりをキャストと歩いていくときとか、そういった特別な時間を味わってほしいと思っています。
──それでは最後に、今後の展開や新しい企画などの予定があれば教えてください。
のり 今まで通り、みんなと「リンドロ」を開催出来る日を大切に過ごしていきたいです! 新しいことを始める予定は特に無くて、長らく休止しているメンバーがふらっと参加した時、いつもの「リンドロ」を感じて楽しんでもらえるといいなと思います。
──ありがとうございました!
のり 「ゆるふわのりちゃん」風に編集お願いします!
──ちょっとそれはきついですね(笑)
本日、100回目の開催となる「GirlsBar ☆RinDrop.☆」の情報はこちらをご確認ください。
プレイヤーイベント|目覚めし冒険者の広場
取材・文 ガスパール
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[著者・匿名希望]
「ウミガメのスープって知ってるか、タヤーカちゃん」
季節は冬。窓の外に、チカチカと点滅を繰り返すイルミネーションの光が増え始める時期。
日が傾き始めた時間帯ともあって閑散としている店内で、城の主は頬杖をついて四人掛けのテーブル席に座っている。
向かいの席で賄いの肉料理を頬張る従業員は、今しがた自分に向かって投げられた問いの意味を口の中の肉と一緒に咀嚼すると、ゆっくりと飲み込んだ。
「いえ、知りませんけど……」
自分の専門は肉料理なので、と付け足して返事を待つ。目の前に座る男は、こうして暇が出来るとたまに料理の話をし始める。なんでも、新しい料理の研究なのだそうだ。
「料理の話じゃなくてな──ああいや、料理の話でもあるんだけど」
そう前置きしてから、男は一呼吸開けて説明する。その間に、彼女は二切れ目の肉を口に入れていた。
「店でウミガメのスープを飲んだ男が突然泣き出したって話」
そうして最後は自ら命を絶つ……のだが、店主はそこで話を止める。考えてみれば、食事中にする話でも無かったかもしれないと思い直すが、目の前の彼女はどうやら興味を持ってしまったらしい。
仕方なしに彼は『ウミガメのスープ』のルールを説明する。一通り理解を終えた彼女は、暫く視線を宙へ向けて考え込んだ。
少し外が冷えてきたのだろうか。肌寒さを感じた店主は、室内の温度を上げる為に席を立つ。雪こそまだ降ってはいないものの、突如として冷え込んだ気温は気を抜けば体調を崩しかねない。視線を相席者へ向けると、彼女はまだ悩んでいるようだった。
カウンター席を目の前にするキッチン。火が消えて、音が消えている戦場が少しだけ寒さを強めている気がして、ふと足を止める。どうやら最初の質問が決まったらしいようで、カウンター越しに手を振る彼女の姿が見えた。
満面の笑みを浮かべて、タヤーカは口を開いた。
「その人はひとりぼっちでしたか?」
◇
ヴェリナードでは水葬が主流なのだが、彼女の生まれ育ったカミハルムイでは火葬が広く行われていた。相手方の家も火葬を望んでいた。
だけれどいざ火葬をすると決まった時、得体の知れない強い不安に襲われて、何度も頭を下げて、額に擦り傷が出来るまで床に押し付けて、俺は水葬を希望した。
きっと、彼女が骨と灰になってしまうのが怖かったのだと思う。
彼女が死んでしまった事を見せつけられてしまうのが、たまらなく怖かったのだと、そう思う。
俺の我儘に相手も最後は折れてくれて、彼女は水平線の向こうへ送られることになった。
手元に残ったのは、彼女が当日身に着けていた一本の簪だけで、俺の周りには驚くほど彼女との品物が無い事に気づかされる。
葬式の日、彼女の小さな体が黄泉の船に乗せられて、揺られて、海の向こうに消えても、俺の瞳は乾いたままだった。
愛する者が死んでも、両親が死んでも、涙を流してはいけない。涙で斬るべき敵が見えなくなってしまうから。それが、代々ヴェリナードを守り続けてきた我が魔法戦士一族の家訓で、生まれてからずっと守り続けてきたルールだった。
そうしてルールを守り続けて、ただひたすらに仕事に明け暮れていたからだろうか。ある日彼女は、俺が恨みを買った盗賊達の強盗に遭って、悲鳴を上げることすら許されずにこの世を去った。冷たくなった彼女を見つけたのは、遠征から帰ってきた日……事件から二日後の出来事だった。
彼女の家は所謂貴族の家で、彼女はそのカミハルムイでも名の通ったいい所のお嬢さんで、つまるところ俺たちは政治的なもので結ばれた、愛のない結婚だった。
包丁の一つも握ることを許されなかったという彼女は料理が出来なくて、結局いつも、食事はバザーに売られている出来合わせの物だった。だから俺は彼女の手料理を食べたこともない。
自然と会話も減っていって、いつの日か名前を呼ぶことも無くなってしまった。
彼女の両親に挨拶をして、葬式の会場を後にする。優しい人たちで、気にすることはないと言ってくれたけれど、一番辛いのはきっとあの人たちだ。
逃げるように、その場を離れた。
空を見上げれば日は既に大きく傾いていて、辺りは暗くなっていた。日が落ちるのも早くなってきた冬。寒さが一層強くなってきたのを感じながら、ようやく自分が朝から何も食べていないことを思い出した。
そのままの足で、食事処を探す。アズランもジュレットも、今は行きたくない。かといって人の多い所に長居したいとも思わない。自然と足は、ガタラの住宅地へ向いていた。
暫く歩き回って、ふと一軒の店の前で足を止める。
──ビストロ ガスパール
幾分か前にどこかの広告で名前を見かけたような気がする。
大きなアーチが二つ、左右に広がり客を出迎える。落ち着いた色の照明が、空間そのものを優しい空気に変える。自然が多く、ガタラの油臭さを感じさせない店構えが一等目立っていた。目につくのは玄関前で金色に輝く郵便受けくらいだろうか。
吸い込まれるような、そんな不思議な感覚が体に走る。気が付けば俺は、ドアを開けていた。
「──その人はひとりぼっちでしたか?」
突然聞こえてきたその声に、頭を殴られたような気がした。
他愛のない、客と従業員のおしゃべりか何かなのだろうけれど、ふとひとりぼっちという言葉が焼けるように耳に残り続けた。
俺はひとりぼっちだっただろうか。俺は、ひとりぼっちになるのだろうか。
ドアの呼び鈴に反応したのか、二人のウェディがこちらを見ている。服装を見るに、どうやら先ほどの会話が店主と従業員の物だったと分かる。俺の他に、客は一人もいなかった。
来客に反応した店主の男が、声をかける。
「ようこそ、『ビストロ ガスパール』へ。お好きな席にお掛けください」
ご注文は当店の従業員までどうぞ。そう締めた男は壁にかけられたフライパンを手に、調理の準備を開始する。
店の中央にある小さな噴水の音が、彼女を見送った波の音と重なった。
◇
「ご注文、決まりました?」
どうせ一人しかいないからとカウンター席に座る事数刻。暫く何を頼もうか悩んでいた自分に、ウェディの女性がそう声をかける。
先ほどまで賄いを食べていたようで、口元にはソースが付いていた。
入り口にあるドラキーの写真立てで確認したメニューの中から、バトルステーキを一つ注文する。
「かしこまりです!」
「かしこまりました、な。タヤーカちゃん」
口調の注意を受けながら、タヤーカさんは笑っていた。
店主はフライパンを油で拭いて、軽く熱を入れる。そこに肉を置くと、油のはじける音が水の流れる音をかき消すように響いた。
赤い身に焼き目が付き始めたら、胡椒を振ってひっくり返す。いつの間にか店内に香ばしい匂いが広がっていて、思わずお腹が鳴ってしまった。恥ずかしさから目を伏せる。ふとタヤーカさんの方を見れば、彼女は何かを考えるように目を瞑っていた。
焦がすことのないように火加減を調節してから、店主は添え物の野菜を切っていく。白い玉ねぎも赤いトマトも、引き立て役では終わらない瑞々しさを湛えている。
フライパンから肉を上げて、清潔感のある白い陶磁器の皿へ盛り付ける。赤ワインをベースにしたソースを上からかけると、綺麗な焼き色の付いた肉が更に輝いて見えた。間違いなく、会心の一皿。
「お待たせしました。バトルステーキです」
手渡された料理を見て、思わず俺は舌を巻いた。これを弁当に包んで持っていけば、どんな一般兵でも武勲を上げられるだろう。そう感じさせる不思議な力に溢れる料理だった。
添えられたナイフで丁寧に切り分けてから口に運ぶ。バザーでたまに買う冷めた物とは一線を画した味が、ナイフとフォークを握る手を夢中にさせる。気が付けば目の前の皿は、ソースが少し残っているばかりになっていた。
ボリュームのある料理に、しかし満たされた気がしない。朝から食べていないからだろうか。それとも、別の何かなのだろうか。
それを察したのか、店主の男がもう一品、俺の目の前にスープを置いた。
「これ、試作品なんでよかったら」
聞けば彼は、既存のレシピに捉われない新しい料理を研究しているのだと言う。これもその研究の一環なのだと置かれたスープは、一見してただのマジックスープに見えた。
いつの日だったか、魔法戦士という職業を気にして彼女が食卓に出してくれたことがあった。
市販品だけれど、と念を押して配膳されたそのスープは料理としての効果が薄く、市販品ならばこんなもんかと考えた物だが、味だけはどの料理よりも好みの味だったのを思い出した。
それからはたまにバザーで買ってきてもらうようにしていた。
「これも、いいんですか」
「ええまあ、試作品なんでお代もいりません。その代わり食べた感想を頂けませんか」
それほど大きくもない器に満たされたスープを匙で口へ運ぶ。口の中に広がったのは魚介の旨味や野菜から出る出汁の香り、そして微かな清涼感──……。
今まで食べてきた市販品のそれと何一つ変わらない味だった。
ヴェリナードの兵士として遠征する際に持ち運ぶ弁当は基本的に味が濃い。鎧などを着込むことから、熱中症を予防するためである。そんな食事が続いた後、帰宅してから食べるこのさっぱりとしたスープが、俺は何よりも好きだった。
期待を含んだ男の声が聞こえる。動揺を悟られまいと、平静を装って返事をする。
「いや、その……。私が普段口にしていたバザーの物と同じ味で……いや、私の舌が貧しいだけでしょう。お役に立てず申し訳ない」
俺のその言葉に、今度は店主の男が驚いた。
「バザーの品よりもさっぱりとした味がしませんか。具材を煮込むのに『せいすい』を使ってみたんです。どうにも他の物に比べて食事としての効能を出すのに苦戦しているんですが」
比較用にと用意してくれたマジックスープを一口、口へ入れる。タヤーカさんが自分も試食してみたいと言うので、新しい匙を用意してもらった。
こうして飲み比べてみるとはっきりと違いが分かる。バザーの品は胡椒の味が強く、加えて少量のデリシャスオイルによって味を作られている。対して、確かに試作品と呼ばれたスープは胡椒やオイルが控えめに調整されており、ほのかな清涼感もせいすいと言われれば思い当たる節がある。
「確かに違いますが……。私が普段食べていたのはこっちの方なんです」
試作品のスープを指さして、そう答える。妻がいつも用意してくれていたのは間違いなくその試作品の方で、ではこの味の濃いスープは一体何なのだろうと首を傾げる。
「不思議なこともあるもんだ……。僕みたいなもの好きが他にいたってことかな」
「シェフみたいな人がですか? そうそういないと思いますけどね」
暫く腕を組んで考え事をしていた店主は、ふと顔を上げて目を大きく開く。
「──いや、そう言えばいつだったか、このスープの作り方を教えてあげたお客さんが一人いたな」
そうしてオーナーシェフ・ガスパール氏はつらつらと、その客の──俺の妻の話を始めるのだった。
◇
俺の結婚相手は決して笑うことの少ない、静かで淑やかなエルフの女性だった。
実家に顔も出さず魔物の討伐に明け暮れていた折に、結婚の相手を決めておいたと当人の意見に耳もくれず婚約をしてしまったのが彼女だった。
初めて顔を合わせた時から、彼女の笑顔を見た回数は片手で数えられてしまうほどで、そんな彼女を見た俺は、この結婚に不満があるのだろうと一人合点していた。
料理は危ないからしない。掃除や洗濯は二人で役割を決めて行っていたが、遠征から帰ると高い確率で花瓶や皿が割れていた。はっきりと言って、結婚生活が上手くいっているとは思えなかった。
そんな中、ある日の遠征を終えて帰ってきた時に出されたのがガスパール氏曰く『試作品』のマジックスープだった。
何度も市販品だと念を押す彼女をよそに食べたスープは確かに暖かくて、優しい味がした。
「お口に合わなければ次からは購入を控えます」
そう言った彼女に俺は一体、なんと言ってあげただろうか。はっきりと思い出すことが出来ないけれど、それを聞いた彼女は少しだけ俯いて、微笑んでいたようにも見えたのは気のせいだろうか──……。
「一生懸命に聞いてメモを取っていてね。必死な姿が可愛いからお代おまけしようとしたらイラーナさんに怒られたもんだ……」
「そりゃあ、そんなことしてたら先輩も怒りますって……」
店主の、ガスパール氏の思い出話にタヤーカさんが呆れたように笑う。
思い出。
俺と彼女に、思い出と呼べる物はあっただろうか。
忙しいからと、関心が無いからと、奥底にしまい込んでいた物が溢れて滲みだす。
遅すぎる後悔が堰を切って嗚咽になり、湯気を立てるスープに落ちていった。
二人でカミハルムイのお祭りへ出掛けた。屋台のりんご飴を物珍しそうに見るものだから買ってあげたら、一緒に食べましょうと差し出された。ヴェリナードの露店を見て回った。どんな品がいいか分からなかったから、彼女の黒い髪に似合いそうな明るい色の簪を贈ったら、大切に使うとお礼を言ってくれた。ジュレットの展望台から年越しの花火を一緒に見た。空に響く音と光に身体を小さく震わせた彼女の綺麗な瞳の中に、大輪の夜空が咲いていた。
後悔と思い出の、一体何が違うのだろうか。今ではその答えも簡単に分かる。俺はもっと、彼女を見てあげなければいけなかったのだと、気付いた時にはもう、隣に彼女はいなくなっていた。
もっとちゃんと見てあげていれば、マジックスープをどうぞと渡すその白くて小さな手に、生傷が沢山あったことに気づいてあげられたかもしれない。慣れない包丁を使って、使ったこともない器具を使って、彼女は俺に思い出を作ってくれていたのだ。
その思い出を、せめて全て掬い上げようと匙を動かす。少しだけ塩辛い試作品の思い出は、物足りなかったその空腹を埋めるには多すぎるくらいだった。
暫くして俺が落ち着くまで、二人のウェディは何も言わずにただそこに居てくれた。
空になったスープの皿を二つ、店主は何も言わずに下げてくれる。もう一つのスープは、タヤーカさんが食べてくれたようだ。
帰り際、店主のガスパール氏にステーキの代金を支払う。スープの分も渡そうとした俺に、彼は一度いらないと言った物だからと手を振った。
店の外へ出ると、火照った体を風が通り抜けて冷ましていく。すっかり暗くなってしまった空には、点々と星が光っていた。
──その人はひとりぼっちでしたか?
俺はひとりぼっちだと思い込んでいたのだと、この店を出た後ならはっきりと分かる。
時間を戻すことは出来ない。俺の勘違いがひとりぼっちにしてしまった彼女には、謝りたくとも謝ることなどできはしないのだ。
「……料理でも勉強してみようか」
手始めにせいすいを買いに行こう。
足は自然と、バザーへと歩み出していた。
◇
「答えを聞いていません」
客のウェディが帰った後で、そう呟いたのはタヤーカだった。なんの脈絡もなく投げかけられた疑問に、ガスパールはしばし首を傾げる。
「ウミガメのスープですよウミガメのスープ。それでどうなんですか? その男の人はひとりぼっちだったんですか?」
「ひとりぼっちって……もう少し分かりやすく質問してくれないかタヤーカちゃん」
お客さんの食事の後片付けをしながら、その問いの真意を確認する。食器を洗うための洗剤を探すその背中に、答えが返ってきた。
「だってご飯を食べて泣いちゃうってよほどの事じゃないですか。だからその人は過去に家族とか、他の人とそのスープを飲んだことがあるんじゃないかなって」
「ああ……そういう事」
答えはイエスだよ、と言いながら後片付けを進める。そろそろディナーの時間だ。これからお客さんも入ってくる頃だろう。
「なら分かっちゃったかもしれません……! ズバリ、その人は思い出の味に感激して涙を流したのです!」
元気よくそう答えるタヤーカの指がガスパールを指し示すのと、店の扉が再び呼び鈴を鳴らしながら開いたのはほとんど同時だった。
視線を向けると、よく見知ったウェディの女性が呆れたような顔でこちらを見ていた。
両手の大きな袋には、彼が買い出しを頼んだ食材が詰まっている。今の時期は特に魚が美味しい。脂ののった魚料理は、この時期の稼ぎ頭と呼んで差し支えないだろう。
「それで……何の騒ぎなんです?」
「お帰りなさい先輩! 実は今シェフと『ウミガメのスープ』をやっていてですね」
「ああ、なるほど……」
一通りの話の流れを聞いた彼女は、買い出しの品を店主へ手渡す。受け取った物を一つずつ確認した店主はそれを片づけると、食器の洗浄を再開した。
「で、なんて答えたのかしら」
「ええと、過去の思い出に感涙してしまった、ですかね。結構自信ありますよ」
「ふふ……」
どうやらこの問題の答えを知っているらしい彼女は、自信あふれるその答えを聞いた後に店主へ返事を促す。
だから、ガスパールは答えた。
「正解だタヤーカちゃん。よく分かったな」
それを聞いて喜ぶタヤーカを尻目に、不思議そうな顔をした彼女はガスパールへ近づくと耳元で囁いた。
「本当は違うでしょう? どうして嘘を教えたのかしら」
その問いに、ガスパールは答える。
「だってさ、やっぱり僕はバッド・エンドよりもハッピー・エンドの方が好きなんだよね。ほら、外が暗いんだからここくらいは明るい方がいいでしょう?」
ねえ、イラーナさん。それだけ言うと洗い終わった四枚の皿を片づけて、ガスパールは軽く店の清掃を始める。カウンター席の水滴を拭き取り、椅子を整える。
全てを抜かりなく整えたガスパールは、小躍りを続けるタヤーカと少しだけ不服そうな顔のイラーナへ向き直る。
そして、まるで研究成果を報告するように仰々しく、不敵な笑みを浮かべて語り掛けた。
「この話で分かることは一つ、思い出も料理を彩るスパイスの一つってことさ」
[著者・ナトル]
仕事中だというのに、珍しく彼女は少し上の空だった。
アストルティアでも数少ない老舗、ビストロ・ガスパール。上品で広いキッチンを中心に豪華な内装が特徴のこの店で、冒険者は会話を楽しみながら料理を楽しむのだ。
ナトルはここでウェイトレスとして雇われている。(無給なので雇われている、というより手伝っている、という方が正しいような気もするが)
いつもなら開店前の清掃作業はオーナーが出勤してくるまでに1人、もしくはイラーナさんと2人で終わらせてしまう。本日はナトル1人しかいないのだが、店内を清掃中にテーブル席を見つめ、少し上の空であまり作業に集中できないようだった。
外は冷え込み、少し肌寒くなってきた秋の朝に考えるのは、自分がビストロ・ガスパールに初めて足を運んだ日のことだった。
◇
ナトルは元々この店の客で、何回か通ううちにオーナーであるガスパールから誘われ、晴れてビストロ・ガスパールの一員となった。
ビストロ・ガスパールは、知り合いのオーガの男性に「最近すっごくいい料理屋があるから!」と勧められて足を運んだのがきっかけだった。
店の外にいるお団子頭の可愛らしいウェディの女性に出迎えられて初めてこの店に来店したときは、カウンターは満席、テーブル席にもちらほら客が座っており中々繁盛していた。ざっと見ても10組ぐらいは居るだろう。ウェイター3人、シェフ3人で営業してはいるが、注文を望む声が多く飛び交い忙しそうにしている。
赤い制服が可愛らしいウェイトレスに、「お好きな席におかけ下さい!」と通されたのでテーブル席に座る。おすすめを聞くと「ステーキがとっても美味しいですよ!」と勧められたので、じゃあそれで、とバトルステーキを注文する。
注文し終わり、ウェイトレスが席から離れていく。彼女の可愛らしい制服と、豪華かつ上品な内装を一通り見渡した後、最近購入した小説を読みながらステーキを待つことにした。賑わう店内の話し声と肉が焼ける音が、うるさ過ぎず静かすぎない居心地のいいBGMとなったおかげで読書が捗るのだ。
そのまましばらく喋らずに読書をしていると、ウェディのウェイターがやって来て声をかけてくれた。品切れのお知らせかと思ったがどうやらそうではないらしい。
「ビストロ・ガスパールへの来店は初めてですか?」
と聞かれたので素直にはい、と答える。
「ご来店ありがとうございます!是非ゆっくりしていってくださいね」
と爽やかに返事をして頂き、そのまま少し他愛ない話に付き合ってくれたのだ。
「なるほど、いやしそうでハーブティーですか…!苦くなりそうなものですが…」
「ふふ、そうなんです。確かにそのまま通常の手順で作ると苦味がどうしても強くなるんですが、少しコツがあって……」
あのときは確か当時研究していて面白かった、いやしそうで作るハーブティーの話をしたような気がする。少し専門的な話だったのに、引いたり嫌な顔もせず聞いてくださったのが嬉しくて、つい話し込んでしまった。
1人で来店した客相手にも気配りを忘れない。こういう店は常連も多く総じて入りにくかったりするものだが、居心地の良さについ時間を忘れ、ステーキが届くまでの時間を楽しく過ごすことができた。
この店は、注文を聞く時はウェイターが行うのだが、調理だけでなくサーブを行うのはシェフ、という一風変わったシステムだ。なのでステーキを焼いてくれたシェフがサーブしに来てくれた時、少しだけ会話もできる。(とはいっても基本は軽い挨拶程度ではあるが)
ステーキを焼いてくれたウェディの男性は「ありがとうございます、ごゆっくりどうぞ」
と、にこやかに声をかけたかと思うと、次の注文があるのか忙しそうに奥へさがっていった。(今思い返すとあれは絶対営業スマイルだった。)
彼は愛想がとても良い、という訳では無いが、どこか安心感のある声をしていたように思う。
このとき初めて、オーナーであるガスパールと話をしたのである。
早速注文したステーキを頂こうと、ステーキにナイフを入れる。あまり力を込めなくてもスッと切れていく様子から、ステーキの柔らかさが伺える。丁度いいミディアムレアで焼かれたバトルステーキは、脂がとろけるようだがしつこくなく、赤身と脂の旨みに舌鼓を打った。確かにこれはおすすめするべき一皿だ。
接客の丁寧さと料理の味がとても良く、なるほどこれは繁盛するはずだと1人納得した。
それからこの店の常連になるまで時間はかからなかった。
いつしかこの店はナトルの数少ない居場所のひとつとなった。
ビスガスのウェイトレスへのお誘いは、常連になってからそう時間がかかる話ではなかった。
元々スタッフに興味はあった。ここ最近顔なじみのスタッフも見かけなくなり、ウェイトレスが本当に少なく感じていたため、勇気を出して声をかけてみようかと意欲は益々湧いてきていたのだが、そもそも募集していなかったらどうしよう、それにこんな接客経験の薄い小娘が、あんな丁寧にウェイトレスができるんだろうかとありもしない話をずっと考えていた。しかしまさか本当に声がかかるとは思ってもみなかったのだ。
声がかかった時は確かに驚きもしたが、それよりも数少ないお気に入りのお店に携われる側になれるんだ、ようやく声がかかった…!という気持ちが強く、内心ひそかに喜んでいた。
しかし恥ずかしいのでこの喜びを内心だけで抑えるつもりが隠しきれてなかったのか、お話を頂いてから一旦考える、ということも無く二つ返事でOKを出してしまった。今思い返すと恥ずかしくなる。
ウェイトレスを始めた当初はほぼウェイトレスが1人だったせいもあるだろうが、たくさんのお客様で賑わっており、とてもやりがいがあった。
しかし最近は客足も落ち、以前のような賑わいも減った。元々オーナーの気まぐれ開店だったが、減ってきた客足に比例するように開店日も減った。
このままだと大切な居場所が無くなってしまうかもしれない。自分の思い入れのある場所が無くなってしまうのは、いつだって悲しくなるものだ。まだそうと決まった訳では一切ないのに、いずれ来るだろうとぼんやり思っていた終わりが少し見えてしまったことに寂しさと悲しさを覚えたのだった。
◇
ここで物思いにふけっていたところから、ようやく目の前のテーブルを拭く作業を再開した。いつもより少し遅くなってしまったが、開店20分前にはなんとか清掃を終えたため、ここからは店外に出てお出迎えの準備をする。
窓を開けると、外の木々の色が綺麗に赤く染まっている様子が伺える。今日は強い風が吹いていて寒く感じたため、軽く暖房の準備をした後、冷たい風が吹く庭に出る。
するとここ最近では珍しく、フリフリで可愛らしいリボンを頭につけたプクリポのお客様が1人、寒そうにお待ちいただいていた。
「【ビストロ・ガスパール】へようこそ。開店まで少々お待ちください。」
と声をかけると、こちらを向いて元気に2回頷いていただいた。
そのまま少しお待ちいただいていたのだが、風が吹く度にプルプルと小刻みに震えて寒そうだったため、一度店内に入り、紅茶を2杯分淹れ、お客様にお渡ししようと外に出た。
「これ、よかったらどうぞ。お砂糖は必要ですか?」
「わぁ!ありがとうございます!お砂糖もすみません…!開店前なのにいいんですか?」
「外はこんなに寒いのに、開店前からお待ちいただいてるお客様を無下にしてはバチが当たりますもの。店内にはまだ入れなくて申し訳ございませんが、この紅茶で少しでも暖まってください」
「わぁ!いただきまーす!!」
良かった、喜んでもらえた。
オーナーに話は通してなかったが、代金は私が払えばいい。それに、事情を話せば許してくれるだろう。
「わたし、前回もその前も来店したんです。」
お渡しした紅茶を飲んで寒さも少し落ち着いたのか、お客様はゆっくり話し始めた。
「あら、ご贔屓にしていただきありがとうございます。」
「えへへ…こんなに綺麗なお店に1人で来るの、とっても勇気が必要でしたけど、すっごく居心地よくてまた来ちゃいました。前回はバトルステーキでしたけど、今日はバランスパスタが食べたいんです!」
「ふふ、バランスパスタ美味しいですよね。是非ご賞味ください。」
手に持った紅茶を飲みながら、お客様が着ている可愛らしいお洋服の話や今日の紅茶の茶葉の話など、他愛もない会話を楽しんだ。
しばらくしてお客様は少し恥ずかしそうにこちらを見たあと、ぽつりと言葉を零した。
「せっかくの機会なのでお話したかったんですけど……わたし、ナトルさんのおかげでこのお店を好きになったんです。」
お客様が言葉を紡ぎ終わる頃、ちょうど強い風が吹き抜け、綺麗に色付いた木の葉達が私達の間で舞い上がって、とても小さく渦を巻いた。
渦巻いた木の葉の間に見えたのは、【ビストロ・ガスパール】という店を好きになった、あの時のナトルだった。
「初めてここに来た時、1人だったのですごく緊張してたんです。でも、ナトルさんがとっても丁寧に対応してくださって…、お料理が来るまでお話し相手になってくださったりして、とっても楽しかったんです。お料理もとっても美味しかったですし!」
(ああ、あの時の私だ。)
【ビストロ・ガスパール】という店のことをとても好きになったあの時のナトルが、目の前のお客様と重なった。
「あの時お話ししてもらった、いやしそうで作るハーブティー……とっても美味しかったです!でも少し苦味が出てしまったのは何故なんでしょう?」
(あの時私が感じた【ビストロ・ガスパール】の良さは、私を通じてちゃんと彼女に伝わったんだ。)
この瞬間、ようやくこの店に相応しいウェイトレスになれたのだと感じた。
「……あれ?ナトルさん?どうしたんですか?!」
慌てた様子でこちらの様子を伺うお客様の反応で初めて、自分の頬に伝う水分の存在を感知した。
もう風は吹いていない。瞬きをしている間に、ナトルの幻影は風と共に吹き抜けていったようだった。
「……何でもございません。ご心配をおかけしてしまいましたね。」
気を取り直してにこやかに返事をする。
「……もしかすると、湯の温度が高すぎたのかもしれませんね。いやしそうの苦味は少し特別で高熱に反応するので、もう少し温度を下げるといいかもしれません。」
「そうなんですね!ありがとうございます!!」
「お役に立てて嬉しいです。」
そんなことを話している間に、間もなく開店時間になる。
「そろそろ開店ですね。」
「今日の営業も楽しみにしてますね!!」
「ご期待に添えるよう、頑張りますね。」
店の入り口のドアを開けて、いつものように出迎える。
この店を心待ちにして下さるお客様のために。
「【ビストロ・ガスパール】へようこそ!」
東側を高い崖に囲まれたこの店、【ビストロ ガスパール】の朝は冷え込む。陽が高く昇ってからでなければ日差しは届かず、いまいち冬の寒さから抜けきらない今の時期では尚更のことである。そしてこんな朝早くからビストロに来ているのは僕、あるいはイラーナさん、もしくはタヤーカちゃんくらいのものだ。
本日は店休日。オーナーシェフこと僕、ガスパールを中心に定例会議を執り行うことになっている。
「おはよう、起きてる?」
「まだ寝ているほうにお昼ごはんのデザートを賭けます!」
カラン、と玄関の鈴を鳴らしながらイラーナさんとタヤーカちゃんが店に入ってくる。四人用のテーブル席に腰かけていた僕は、タヤーカちゃんには悪いがしっかりと起きていた。
「おはよう。ちなみに今日のデザートは笹だんごの予定だったんだけど」
「舐めた口きいてごめんなさいでした、タヤーカにも笹だんごをください」
「自分の言葉に責任をもつ、それが大人ってもんじゃないか?」
「大人はそんな風に意味もなく意地悪したりしないわ」
ちょっと気取った態度の僕をイラーナさんが冷めた目で見たあたりで、全員でテーブルを囲んで席につく。
「じゃ、三人揃ってデザート抜きにならないようにとっとと会議を始めようか」
《議題① イラーナより》
「しもふりミートの仕入れ値がすごく高騰しているの。全メニューを時価で提供しているのはお客様にもご理解いただいているとはいえ、さすがに肉料理は高すぎて売上が落ちているのが実情ね」
肉料理の高騰問題は以前から議題に上がっていた。僕の一番の得意料理であり売れ筋料理でもあるバトルステーキは、同様の"効果"を半値程度で得られるバトルパッツァのレシピが調理ギルドから公開されたことにより、人気が下がり続けている。調理ギルド認可の調理職人である僕としては無視できない流行なのだが、いかんせん、長くグランドメニューに据えている品を変えることには抵抗があった。
「しもふりミートは野菜と違って収穫量が少ないのも問題ですからねー」
「どこかに安く仕入れられるルートはないのか?」
「そういうルートは大概、大口注文が可能な人気レストランに卸しているものよ。この店が定期的に五百やら千やら仕入れられるかしら?」
「そんなに客が来たことないな……」
「むむう、大量にお肉を消費できれば良いのですが……ハッ! 私が食べてしまえば」
「金が払えるならな」
メニューから肉料理、ひいてはバトルステーキを一時的にでも外すという選択肢はあまり選びたくない。とすれば解決策はだいたいいつもここに落ち着く。
「主力メニューだからな、赤字覚悟で値段を下げるようじゃそれこそ経営が成り立たない。やっぱなるべく安い卸店と契約できるようにするしかないんじゃないか?」
「あるいは自分たちでしもふりミートを狩りに行くか、ね。効率は全く良くないけれど」
「しもふりミートを三つ獲る間に、同じくらいの量のお肉をお弁当で食べちゃいますもんね」
真面目な顔で狩猟案を検討してくれているが、効率が悪いっていうのはそういう意味ではないんだよタヤーカちゃん。
「まぁ、この問題はいつも通り先送りということで……」
「仕方ないかしらね。次にいきましょう」
《議題② ガスパールより》
「春の新作メニューの件でさ。去年は梅肉ソースのタンクハンバーグ、その前は春野菜のカラフルミラクルサンド。今年はキレキレキッシュでいこうと思うんだけど、いまいち良いアレンジが浮かばなくて」
【ビストロ ガスパール】では、季節ごとにガスパール作の創作料理をメニューに加えている。完全に趣味の料理ではあるものの、季節感を与える皿は単純に楽しく、客ウケも良かった。
イラーナさんは顎に手を当て、俯きがちに目を伏せながら「……まあ、料理人ではない私達に聞かれてもという点は置いておくとして」と前置きしてから僕を見る。
「そうね、定番のアスパラガスとベーコンのキッシュなんかは旬の野菜だし良いんじゃないかしら」
「あくまで定番だけどね。そこからどう発展させていくかが決まらないって相談」
「ちなみにどうしてキッシュって決めたんですか?」
「昔の話だけど春祭りにはキッシュが欠かせない、っていう地域があったらしいんだよね」
だからなのかはわからないが、定番レシピにはアスパラガスやら玉ねぎやらの春野菜も多く使われている。
ふうん、と納得したように頷いたタヤーカちゃんは突然立ち上がり、僕を指さしてにこっと笑った。
「考えていても仕方がないです! 作ってから研究しましょう!」
「珍しく積極的だな! よし、それじゃあたまには一緒に作っ……」
僕をさした指を今度は口元にゆっくりと戻して、"しー"のポーズをしたタヤーカちゃんは僕に疑問符を投げかけてきた。
「餅は餅屋、キッシュ作りはシェフ、それを食べるのは?」
お腹を空かせた食いしん坊。
「ほら……とりあえず普通のキレキレキッシュが焼けたよ」
キッシュ自体はさほど難しい料理ではない。小麦粉などから作った器状の生地の中に、卵と生クリームと具材を混ぜた液を入れて、オーブンで焼くだけだ。三人で食べ切るには少し多かったが、昼前なのもあってぺろりと平らげた。
「美味しかったですねぇ」
「普通にランチタイムになっちゃったな」
食べ終えた皿をイラーナさんが片付けてくれているところで、タヤーカちゃんがこちらを見る。
「ところでお聞きしたいのですが」
《議題③ タヤーカより》
「キッシュとタルトの違いってなんですか?」
先ほどの料理工程を見ていて浮かんだ疑問なのだろう。器状の生地を作る、中に入れる具材を別にまとめる、そして器に具材を詰める。工程としては確かにキッシュとタルトは似通った料理ではある。料理初心者のタヤーカちゃんのために噛み砕いて説明するならば。
「ざっくり言うと、塩気があって食事っぽい中身なのがキッシュ。フルーツとかの甘味でデザートっぽいのがタルトかな」
「生地もだいたい同じなんです?」
「だいたい……だいたいね。タルトには生地自体に砂糖を入れることが多いかな。そういう意味では、砂糖を入れないでおけばタルトでもキッシュでも合うは合うよ」
もちろん同じ生地で作ろうとすれば調整は必要だが。
「なるほど……」
思案顔であっちを見たりこっちを見たり、少しにやけているような、それでいて緊張したような顔をしていたタヤーカちゃんだが、やがて僕を遠慮がちに見つめてきた。
「……もしかして、僕より先に面白いの浮かんじゃった?」
「見た目だけなら。ちょっと倉庫に行ってきます」
待つこと数分。タヤーカちゃんの手に握られていたのは、買ったはいいがほとんど使い道が無かったタルトの金型。一口大に作りたいときに使う、先の尖った楕円形、ボートのように見えることから『舟型』と呼ばれるモノ。
「キッシュ生地としては見たことがないのですが、この型でキッシュもタルトも作って並べるのはどうでしょうか」
「え、それはちょっとかわいいかもしれない」
正直にそう思った。最初から一口大のキッシュというのは僕は見たことがないが、技術的には問題なく作れる……と思う。
「あえて問題点を挙げるとすれば、一皿に食事からデザートまで載せるわけだろ? 八個……十個くらいかな。どう並べようか」
「あれなんかいかがです? あのー、お高いホテルのアフタヌーンティーで出てくるような、二段とか三段のお皿に小さなサンドイッチとかケーキとか載ってるやつです」
「確かケーキスタンドって名前だったっけな。でもあれの良いとこって色んな料理が所狭しと並んでて、どこから見てもどこから食べても楽しいってところだし」
「全部が同じ舟の形だから、そういう派手さはあんまり無いかもしれませんね」
案自体はとても良いと思う。キッシュ&タルトのオードブル。一つずつ別々の具材で作って。何から食べようか、何を取っておこうかとか。一皿でフルコースみたいなこともできるかもしれない。春野菜ばかり詰めたサラダっぽいのとか、スープ……は無理か、トマトとバジルでミネストローネ風にはできるかな。チョリソーとチーズで肉料理っぽいの、スモークサーモンとほうれん草で魚料理。デザートは言わずもがな、春が旬のイチゴとかサクランボとかでタルトにして──
「シェフー、顔が煮詰まってます」
と、タヤーカちゃんに呼びかけられて意識が頭の中の皿から店内に戻る。
「私の案が結構良かった感じですか?」
「うん、今年はこれでやってみよう。まだ具材とか盛り付けとか検討することは沢山あるけど。さあ、タヤーカちゃんもコックコートの準備してね」
「え? ですから餅は餅屋、キッシュ作りはシェフ……」
「だったらタヤーカちゃんも作れるようになればいい。それに、舟型を並べる案を出した功労者は君だぜ? このレシピに限り、店に出せるレベルのものを作れるように教えてあげるよ」
そう言われたタヤーカちゃんは少し面倒臭そうに、それでいてどこか嬉しそうな顔をする。言うなれば、親が突拍子もないことを言ったときに『しょうがないなぁ』と呆れながらも笑ってしまうような、そんな表情。
そんな二人を、帳簿の整理をしているイラーナさんが微笑ましく眺めていることには、僕たちは気がついていなかった。
そして夜。幾度の試作を重ねた僕たちは、ようやく納得のいく一皿を完成させることができた。
アスパラガスと新玉ねぎとベーコン。
キノコとポテトのカレー風味。
スモークサーモンとほうれん草。
トマトとチキンとチーズ。
イチゴのショコラ。
サクランボのレアチーズ。
メロンのカスタード。
クルミとアーモンド。
そしてこれらを並べる皿は──
「これ、皿って言うよりはおぼんみたいですね」
明るい色合いの木材で作られた、平たくて四角い器。そこに八種の舟を、位置はバラバラに、向きは揃えて並べていく。
「こうやって同じ方を向かせるとさ、器の木目が川の流れみたいに見えてこない?」
「ああ、なるほどです。かわいさはわりと減っちゃってますけど、どうしてこの器に?」
「春がテーマなわけでさ。春って旅立ちの季節でもあるじゃない。新たな旅に漕ぎだす舟なんだよこれは」
春に故郷を旅立つあなたたちへ。
そして、もしかしたらこの『船出のキッシュプレート』から始まるかもしれない、君の料理人生への祝いの皿。
「初めて一緒に料理をしてみたわけだけど、どうだった?」
「楽しかったですよ! たまにはやってあげてもいいです」
「たまにかよ」
「当面の間は私の専属シェフとしてよろしくお願いしますです」
「それこそたまにでいいかな」
ちなみに後日談であるが、春の限定メニュー『船出のキッシュプレート』は予約限定となった。おわかりかと思うが、こんな手間のかかる一皿を注文で受けていたらとてもじゃないが手が足りないのであった。というオチ。
《春の定例会議:閉会》